一族と墓のハナシ

一族と墓のハナシ

 モモの家に住む我が母方の一族を、仮にモモの一族と呼ぼう。モモの一族の始まりは、明治時代である。さほど古いわけでもないのだ。
 モモの家は、関東辺縁の某街にある。明治期に鉄道が敷かれると、駅の周辺に多くの人が移り住み、それまでの集落とは関係ない新たな街がいくつも拓かれた。関東周辺に点在する、そのような経緯で生まれた街のひとつに、モモの家はある。
 私の父方は江戸時代以前からの集落に家があり、方言も強い。一方、モモの一族は市街近くに居を構える移住者の子孫であるらしく、訛りがさほどない。ほんの十キロメートルほどの違いなのだが、たいへん面白い現象である。
 さて、モモの一族が現在の土地に落ち着いたのは、明治の中頃の話である。他の多くの地域がそうであったように、我が街の土地の大半も、少数の地主に所有されていた。
 モモの一族の祖は、地主のもとで働いていたとある老女である。子細は伝わっていないが、彼女は主人に仕えてよく働いたらしい。褒美として土地を賜り、自作農となったのだという。
 いかなる事情があったのかはわからないが、彼女には伴侶がいなかった。寡婦か出戻りであったのかもしれないが、何にせよ折角の土地を相続する子供がいない。そこで、とある夫婦を養子にもらい、姓と土地を受け継がせることとした。私の直接の祖先は、この養子となった夫婦だ。明治期なのでさほど遠い話でもない。私の祖父の、さらに祖父母にあたる夫婦である。
 このような経緯でモモの一族は誕生したのだが、当時を発端として、現在問題が生じている。どういうわけか、我が家には墓がふたつ存在するのである。
 地域によっては「イリ墓」「マイリ墓」といって、遺体を葬る墓と子孫が参る墓を別々に作ることがある。しかし、我が家はそういった文化圏には属していない。遺体が葬られた墓が、ふたつ存在するのだ。
 一族の祖となった老女は、養子を迎えたものの、「墓にはひとりで入りたい」との意向を示したのだという。彼女の墓は菩提寺につくられ、彼女ひとりが葬られている。一方、養子夫婦以降のモモの一族は、自宅近くの地域の墓地に葬られている。
 なぜこうなったのかは判然としない。我が祖父ですら、件の老女とは直接会ったことがないからだ。
 ただし、祖父は会ったこともない彼女を「くそばばあ」と評するので、老女と養子夫婦の仲は、良好とは言えなかったのだろう。ほんの百数十年前のことであるのに、老女が何の手柄を立てて土地を賜ったのか不明瞭なのも、そのあたりが関連しているように思える。仲がよければ養子といえども、「ひとりは淋しいですから同じお墓にしましょう」となってもよいはずである。そうならなかったということは、のっぴきならない事情があったのだろう。
 確執の有無はともかくとして、老女と養子夫婦が繋いだモモの一族ではあるが、こんにち、その家柄も途絶えようとしている。
 我が母は女ふたりのきょうだいであり、祖父の代も男ひとり女さんにんの構成である。現在、私は祖父母とモモの家で同居しているが、名乗っているのは父方姓だ。モモの一族の血筋は、私に至るまで脈々と受け継がれているが、避けえぬ祖父母の長逝の日には、姓は途絶える運命である。
 そして、祖父はそれを諾としている。我が祖父は、家柄に対して興味がない。姓にも執着がない。自分の代をもって「イエ」が途絶えることを、恥とは考えていない。
 幸いなことに、私や我が母は、モモの家および近間に居住している。土地の所有や墓の世話など、祖父母なき後の問題は、当面先送りできる。
 しかし、ふたつの墓が存在する現状は、維持管理の大きな負担となっている。
 さらに問題をややこしくしているのは、家祖である老女が葬られた墓が、菩提寺の境内にあるということだ。
 祖父母が長逝し、モモの一族という「イエ」が消滅したとしよう。私や母で土地を管理し、墓守をすることは可能である。
 しかし、家祖の墓が寺にあり続けた場合、「イエ」が消滅したのに寺が菩提寺のままになるという、面倒な状況が生まれてしまう。父方には父方で菩提寺があるのだから、父方の姓を名乗る私や母は、ふたつの菩提寺とつきあいを続ける羽目になる。このような状況は避けたい。祖父も、自分の代で菩提寺とのつきあいを終える考えでいる。
 そこで現在、菩提寺にある家祖の墓をどうにかしよう、という相談が行われている。ある種の墓じまいだ。
 具体的な方策は、家祖の墓を地域の共同墓地にある墓へ統一するか、永代供養とするか、といったあたりだ。現状、養子夫婦以降の一族が入った墓と統一する方向で、調整を進めている。
 「墓にはひとりで入りたい」と言った、かの老女の意向には背くことになる。しかし、彼女が没してから百年をとうに過ぎている。むしろ、家祖の希望に免じ、百年以上も墓を管理し続けたのだから、十分ではなかろうか。
 墓は本質的に生者のためのものだ。いつだって現世は生者のためにあり、墓というシステムは、生者の納得のために存在し続けてきた。
 今、モモの一族は転換点にいる。緩やかな終わりを受け入れ、土地家財を持続可能な方法で継承するために、少しずつ準備を進めている。顔を知らぬ家祖の墓を、これ以上保持することは不可能だ。であるならば、一族最後の家長である祖父が健在である内に、けりをつけるのが穏当である。
 これが仏教説話の世界ならば件の老女が化けて出るのやもしれないが、こと現代においては、死者は己の言葉を語りえない。仕事はつつがなく終わるだろう。
 百年以上前に没した家祖の顔が拝めるならば、化けて出てくれてもよい……などと考える私もまた、不信心者である。