名前のハナシ
ある日、祖母に用事を頼まれた。銀行への提出物に、本人確認のための書類を貼り付ける必要があるので、カードをコピーして欲しいという。
当初、祖母はコンビニのコピー機に行こうとしていたのだが、私は離れに家庭用プリンタ複合機を持ち込んでいたので「すぐできますよ」と引き受けた。
祖母は、書類に貼るにはどれが相応しいかと、本人確認証をいろいろ出してきた。マイナンバーカードなら片面貼り付けで良いから、これにしましょう……と話していたところで、ひとつ違和感に気づいた。
このとき私は、初めて祖母のマイナンバーカードをちゃんと見た。名前欄、生年月日、有効期限――気になったのは名前欄だ。
祖母の名前には、「恵」という字が入っている。しかし、マイナンバーカードに印字された祖母の名前には、旧字体の「惠」が使われているのだ。
「おばあさん、あなたの名前、こう書くのが正しいんですか」
私はショックを受けながら祖母に尋ねた。生まれてこのかた二十余年、祖母の名前を漢字で認識してから十五年以上、彼女の名前は「恵」を使っていると信じてやまなかったのである。
私の驚愕をよそに、祖母は
「あら、そうみたいねぇ」
と答えた。
「そうみたいって何ですか」
「普段気にしていないし、面倒だから自分で書くときも「恵」にしているもの」
「そうですよねぇ⁉」
そうなのだ。我が家の誰もが、そして本人さえもが、祖母の名前を書くときは新字体の「恵」を使っている。故に私も今日まで、祖母の名前の正式表記が旧字体であるなどとは、夢にも思わなかったのである。
私は机の上に出ていた祖母の運転免許証を見た。そこに印字された名前には、新字体の「恵」が使われている。
「あら、免許証はそっちなのね~」
祖母は興味なさげだが、私はぞっとした。よくもまあ、今日までトラブルが起きなかったものである。
このようなことがあり得るのか、ちょっと調べてみた。マイナンバーカードに印字される氏名等の情報は、住民基本台帳を参照元としている。一方で、運転免許証の情報源は警察の管轄にあり、住民基本台帳とは別のデータベースである。さらに、データベースの都合上旧字体が使えないこともあるらしく、インターネット上には新字体で発行された免許証を旧字体のものに変えてもらった体験談もあった。
データベースが違う以上、表記揺れはあり得る。しかし、大抵の場合は本人の申告により修正されるのだろう。我が祖母のようなひとでもない限り。
「要するにどっちでもいいってことね~」
いいわけがない。本人確認証の役割を、誰かこのひとに教えてやってくれ。いや、私が説明せねばならないのか。
途方に暮れつつも、私には少し納得感もあった。それは、父方の曾祖母にも、名付けにまつわるエピソードがあるためだ。
父方の曾祖母は、母方の祖父母より十歳ほど年上だ。戦前生まれである。そのころの名付けは、今日の感覚では考えられないようなものだったと、曾祖母は話す。
曾祖母の名前を仮に「サチ」としよう。彼女の名前はカタカナ表記で二文字。古い人名にしてはアッサリしているな、とかねてから思っていた。しかし、曾祖母の両親は、ほんとうは「サチ子」と名付けたかったのだそうだ。
なぜ「子」が抜けたのか。当時、出生の届け出は、役場の窓口に口頭申告することが多かった。出産後、子の両親は忙しくしているので、役場まで出向くことは難しい。家中の誰かや近所のひとに、届け出を頼むことがほとんどだった。このとき、子供の名前も申告するのだが、お使いを頼まれたひとが、役場までの道中で名前を忘れることがよくあった。
私の郷里は田舎であるため、当時は読み書きが不十分なひとも多く、メモをする習慣は一般的でなかったらしい。そんな事情で、曾祖母は「サチ子」の「子」を忘れられ、「サチ」さんになってしまったのだった。しかし、曾祖母の両親からすれば、彼女の名は「サチ子」である。ふたりは曾祖母の名前を、「子」をつけて呼んでいたそうだ。
酷い話とお思いだろうか。恐ろしいことに、曾祖母はまだマシなほうだ。名前を忘れられた挙げ句、お使いのひとが適当に考えた名前(ちょうど藤が咲いていたからフジ子、など)をつけられてしまう事例もあったらしい。現代人の感覚からはかけ離れた名付けの所以だが、まだ百年以内の過去の話だ。
ふたりの事例で共通するのは、公的に記録される「名前」と、日常的に使用する「ナマエ」の乖離だ。ふたりとも、「ナマエ」のほうを重視している点でも似ている。九十代の曾祖母は今も「サチ子」さんだし、八十代の祖母はこれからも自分の名前を新字体で書き続けるだろう。
曾祖母の時代を思えば、字義がどうだ、画数がどうだと唸る現代の名付けは、たいへん細やかなものだ。しかし、あまり凝った名前をつけると、我が祖母のように記載トラブルを生みかねない。
目下予定はないものの、我が子に名をつける際には、極力ややこしくない表記にしよう、と思った出来事だった。
名前のハナシ
モバイル端末の方は横スクロール、PCの方はSHIFT+スクロールでお読みいただけます。
投稿日
最終更新日
COMMERCIAL

